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「宇宙が始まる前には何があったのか?」 <読書研究室>

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「宇宙が始まる前には何があったのか?」買わずにはいられなくなるタイトル、全米でベストセラーになった宇宙物理学者ローレンス・クラウスの一冊です。

この20年ほどの間に、物理学分野の進化には目を見張るものがあって、昭和の学生時代を過ごした年寄りにとっては、教科書に載っていたことと話が違いすぎて戸惑うことばかりです。 
モノはいったい何でできているのかというミクロの世界の法則を解明しようとする量子物理学の分野では、先日、重力のシステムを証明するヒッグス粒子がついに見つかり、「大統一理論」の解明にまた一歩近づきました。

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一方で、その量子論を使った宇宙の起源の解明もドラマチックな変化を見せています。
ビックバンに始まったとされる宇宙は、今も膨張を続けているのですが、1990年代の終わりにそのスピードが加速しているという説明のできない現実が観測されてしまいました。
何か見えない力が宇宙を広げている、暗黒物質や暗黒エネルギーと言ったわれわれには見えない何かが宇宙の実に99%を占めているということが、今やほとんどの科学者たちの常識となっています。

そして、物理学者たちがうすうす感じ始めているのが、「何もない無からエネルギーが、そして物質が生じる」のではないかというシナリオ。 
我々の宇宙は、「ある日突然、何もないところから生まれた」という、まるで苦し紛れで、エネルギーの保存則にも反するような結論が、いまやしっかりとした物理の理論で説明できそうなところに来ています。

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「第一章 いかに始まったのか?」「第二章 いかに終わるのか?」「第五章 99パーセントの宇宙は見えない」「第九章 量子のゆらぎ」「物質と反物質の非対称」などなど、初めて量子物理にふれるかたには消化不良となるかもしれませんが、最新のわくわくするような世界像が詰め込まれています。

荻窪生活研究所も、何もない真空には、何もないのではなくて、私たちが漠然とエネルギーと呼ぶ私たちのまだ知らない何かが満ちていて、そこから「借りてくる」ことでモノが作られ、そして「借りは返され」てもとに戻る、そう考えています。

この宇宙には、はじまりと終わりがあるのか? それはどのようなメカニズムなのか? 生きているうちに解明したいテーマの一つであります。



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「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」 <読書研究室>

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わたくし、我が家のご仏壇の宗派も忘れるほどの、日本人にありがちな無宗教でありますが、縁起はかつぐほうで、神棚も祭ってありますし、昨年末は式年遷宮ブームに乗り遅れまいと出雲大社と伊勢神宮のはしごもして来ました。
そんな折、新聞広告で目に留まったのがこの本、「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」幻冬舎新書。
たしかに八幡に稲荷、天神など神社もいろいろ、いったいコレ何が違うんだろうと手に取りました。

そもそも日本には八百万の神というようにたくさんの神様がいることになっていて、キリスト教や仏教とはずいぶん趣が違います。 神道には、開祖もいなければ教典も教義もなくって、悩める者の救済方法もないという、言われてみれば不思議な宗教です。

神社はすべて日本神話に端を発して、天皇に続く日本の歴史話かと思えばさにあらず、日本中で一番多いという「八幡神社」の総本山は、大分の宇佐八幡神社ですが、この八幡神は、古事記や日本書紀などには登場せず、かなり後の文献に外来の神として新羅、つまり韓国からやって来たという記述がのこっているそうです。
その後、勢力を広げる仏教と深く結びついて、天皇、朝廷との関係を築き、法隆寺の大仏建立にも参加するなどし、いわばオフィシャル神社となることで全国に八幡神社が増えていったそうです。
何とも人間臭いおはなしです。

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また、天神さまは、皆さんご存知のように学問の神様として菅原道真という「人間」を祭った神社。お祀りするのは、神様とは限らないわけか。
こちらもポピュラーな稲荷神社は、狐を祭ってあるわけではなくって、そのルーツは、京都伏見で稲作で富を得ていた渡来人の奏氏という人物が稲の神様を祀っていたことに始まったそうで、こちらも日本神話とは関係のない「外人ルーツ」の神様なんだそうです。

このように、身の回りでよく目にする様々な神社のルーツや、祀ってある神様が分かりやすく解説されていて、へぇ~そうなんだと楽しく読める神社事情です。
どの神社も仏教と密接に手を取り合って、朝廷や時の将軍などと政治の駆け引きをしながらその勢力を広げていったという、信仰とは別の一面も意外です。

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そういえば、正月の初もうでという習慣、これは近代になって鉄道が発達したときに、鉄道の集客のために鉄道会社が仕掛けたキャンペーンが発端だったそうで、それまでは、寒い正月にわざわざ神社を参るということはなかったそうです。 なるほどなぁ・・・・・





 荻窪生活研究所

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「自動車のサスペンション」を読む  <読書研究室>

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静岡で給食のパンから1000人以上が感染するなど、今年は各地で、ノロウィルスが猛威を振るっています。 
実はそういう私も、昨年のよりによってクリスマスイブに感染し、まる2日間、嘔吐と下痢に苦しんだあげく、どうにもこらえきれずに、倒れこむように救急病院で点滴。 ポカリスェットも呑み込めない吐き気に4キロ痩せて散々な年末でした。
一昨年に続き、生涯2度目、歳とともに抵抗力が落ちるのか、ノロにロタにインフルと、年々ウィルスは進化してパワーアップしているように思えてなりません。

そんなでこんな退屈な病床、読書と相成りました。
グランプリ出版の「自動車のサスペンション」は、ショックアブソーバーのトップメーカーKYB(カヤバ)株式会社がまとめたサスペンションの基礎講座です。
アライメントのセッティングで、クルマはびっくりするほど変わると実感している研究所ですから、いちから復讐するつもりで読ませていただきました。

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その昔、荷馬車に始まったサスペンションの起源から、主要なサスの形式の解説、その優劣や各部品の役割など、それこそ単語の解説からわかりやすく説明してくれます。
また、コーナリングの最中にタイヤやサスペンションで何が起こっているのか、そもそもどうしてクルマ曲がるのかなど、興味深い解説が満載です。

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ショックアブソーバーの振動係数の計算などという難解な部分もありますが、概してサスペンションの基礎を理解するのにピッタリな入門書になっています。
サスの将来のページでは、今メーカーが何をしようとしているのかといった未来像にも触れて、部品メーカーならではの内容になっています。

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2400円となかなかのお値段も手伝って、そうどこの書店にも在庫していますという種類の本ではないのですが、またもアマゾン、恐るべし、顔色一つ変えずに翌日には配達してくれました。
スターバックスが日本に上陸して、都会では「喫茶店」が消え去ってしまったように、アマゾンのおかげで町の本屋さんが昔ばなしになる日が来やしまいかと心配になってしまう病気療養でありました。




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「もの食う人びと」    <読書研究室>

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「もの食う人びと」 辺見 庸 著。
1994年だから、かれこれ20年近く昔に書かれたこのルポルタージュを、今年80歳になったおふくろにもらいました。 
これは読んどいたほうがいいって、もう4~5冊も人に配ったというのですが、いやはや年寄りの言うことは聞くもんだという、強烈なインパクトでした。

 世界中の 紛争地帯、貧困地帯、犯罪地帯、後進国と先進国・・・・ 東京に暮らす私たちならとても食べ物がのどを通らないような境遇で、人間は生きるために食事をします、平然と。
そんな食べるという日常を通して見た、人間の悲しみの本質が、この本には書かれています。

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来る日も来る日も45度を超える気温の中、何も育つことのない土地にしがみつく人びと、未来がやってこない悲しみ。 来る日も来る日も死が訪れるのをただ待つ悲しみ。
社会が社会にはならず、国が国になれず、人が人でいられず、家族が家族でいられない悲しみ。 

人間としての約束事のない、動物と同じように力づくだけがルールの土地、そして、その原始の世界に持ち込まれる近代の武器の数々が、悲しみをエスカレートさせていきます。
1億6千万ドルの人道援助を届けるために費やされる、15億ドルの国連軍事費、ヘリコプターの影を見上げながら、帰る場所のない人々。

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ペットブームの昨今、アジアの猫用缶詰工場、猫用缶詰5つ分の日当のために8時間立ちっぱなしで働く娘たちの生活。 そして、それを知っている悲しみ。

宗教が違うからという理由で、見知らぬ他人と殺しあう、自らで引いた国境のために殺しあう悲しみ。 言葉が分からない、気持ちが読めないために引かれる引き金。
戦争の中で生き残るための狂気と、その記憶を背負って、一生、生きて行かなければならない悲しみ。
 
そして、チェルノブイリ・・・・・

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一つ一つの悲しみのエピソードには、どうしてそうなってしまうのかというイキドオリと、どうしてもそうなってしまうという、人間とこの世界の悲しみが描かれています。
そして、そのどうしようもない悲しみの中でも、彼らはものを食べます。
決まった時間に、何事もなかったように。


おふくろは、いわゆる戦中派で、疎開先の台湾で終戦を迎え引き上げ船で帰ってきたといいます。
戦後間もなくの何も食べるもののない暮らしから、高度成長期、そしてバブルと、目の回るようなダイナミックな人生。 きっとこの本のどこかに、重なるところがあったのかもしれません。


ぬるま湯な自分の人生が、少し恥ずかしくなる一冊でありました。



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昭和ショートstory  「山手のドルフィン」   <読書研究室>

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「山手のドルフィン」

1976年のはじめに、僕は、念願の免許証を手に入れた。
親のすねをかじったブルーのマツダのクーペは、中古だったけれど、どこへでも僕らを連れて行ってくれたし、ロータリーエンジンの絞りだすスピードは、中学生のころから愛読書は「オートスポーツ」という、はなはだ偏ったこの青年を満足させてくれた。
あのころは、東名高速と中央、第三京浜くらいしか高速道路もなかったから、ドライブコースといえば湘南か箱根、富士五湖あたりがせいぜいだったけれど、なかでも僕らのお気に入りといえば、横浜だった。

田園調布にほど近い、環八通りの角のヴァンファンというドライブインが僕らのたまり場で、いつも駐車場には誰かの見慣れた車が止まっていた。 学校帰りには多摩堤から自由が丘への近道の、通称「田園サーキット」を抜けて、ここで頼むのは、いつものドライカレー。 お互いに彼女を連れて2階の窓際の席に陣取って、誰かが誰かにふ
られたとか、来週の六本木のディスコパーティのこととか、どうでもいいような話をしながら、当時はまだ珍しかったBMWやVWゴルフなんかが環八を走っていくのをぼぉ~と眺めていた。
話にも飽きて、さぁ、どこへ行こうかとなると、「第三飛ばして元町でも行くか?」 なんていうのがお決まりで、環八を左折して第三京浜に乗り、三ツ沢の出口を出たら坂を下りて、まっすぐ行けば右手に中華街が見えて来る。 その突き当りが元町。 ちょうどハマトラがはやりの頃で、ミハマなんかは、いつ行ってもごった返していたけれど、まだまだのんびりとウィンドウショッピングが楽しめた。
 
ユーミンのヒット曲に「海を見ていた午後」というのがあって「山手のドルフィン」というレストランが出てくる。
「山手のドルフィンは 静かなレストラン 晴れた午後には遠く 三浦岬も見える
 ソーダ水の中を 貨物船が通る ・・・・・」
この頃、僕らのクルマのカーステレオには、きっとユーミンのカセットテープが入っていたから、横浜、山手のドルフィンは、だれでも彼女を連れて、一度は行きたいデートスポットだった。 まだ、カーナビなんかなかったから、ドルフィンがどこにあるのか分からず、しばらくそのままになっていたけれど、ある日、例の環八のドライブインで友達がナプキンに地図を書いてくれた。 
元町の裏手から丘を登っていき、外人墓地を横に見ながら、住宅街の中をくねくねとカーブする道を僕らは走っていった。 ナプキンに書かれたいい加減な地図では、案の定、ドルフィンにはたどり着けず、しばらく見知らぬ路地を行ったりきたりした後に、突然、道はなにやら開けたところに突き当たった。 米軍の根岸のベースだった。 ゲートの米兵が怪訝そうにこちらをにらんでいて、二人ともドキッとして、顔を見合わせた。
「これじゃあ わからないわね」と助手席の彼女がつぶやくのを聞きながら、クルマをユーターンさせると、そこにドルフィンがあった。
 
こげ茶色の、たぶん木造の地味なレストランが、坂の途中の高台の斜面に、張り付くように立っていた。 正面の駐車場に車を止めて、何段か階段を上がったエントランスは、やはり落ち着いた地味なこげ茶色で、長年の夢がかなったはずの僕らは、なんだかがっかりしていた。
扉を開けて入った店内は、今ならオールドモダンとでも呼ぶような落ち着き払った雰囲気で、学校の体育館の舞台の裏がわや、理科室の倉庫のような乾いた古いにおいがした。 
僕らは、運よく海側の窓べの席に通されて、当然、念願のソーダ水を注文した。 ちょうど夕方の西日が強くなるじぶんで、窓からは、歌のとおりに横浜港が見おろせたけれども、精錬所やコンビナートに見え隠れした隙間から、ところどころ海が見えるだけで、ソーダ水の中を貨物船が通ったりしないことは、二人ともすぐにわかってしまった。
たぶん、ほかには一組しかお客はいなくって、古びたとても静かな時間が流れていた。 自然に低くなった声で「どこの席から三浦岬が見えるんだろうね」なんていいながら、それはそれで僕らは満足だった。
 
その後何年かして、もう一度ドルフィンを訪れたときには、すでに近代的なカフェレストランに建て替えられていて、おしゃれなバレーサービスの青年たちがてきぱきとクルマを誘導していた。 そのとき僕は、一度しか入ったことが無いくせに、なんだか大事ななじみの店を台無しにされたような気がして、「これって、ドルフィンじゃあないよね。」と、別の店を探しに坂道を下っていった。
坂の途中からは、あのときのように西日に照らされた横浜港が見えていたけど、夕暮れにむかう太陽の低い角度は、残された季節がとても短いことを教えていて、僕らはじっと前を向いて、だまったままでいた。

あれ以来、ドルフィンには行っていないし、あの彼女ともほどなく別れてしまったけれど、ユーミンの歌を聴くたびに、僕はあの乾いた古いにおいを思い出すことが出来る。

 *昭和ショートstoryは、フィクションです


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昭和ショートstory 「ライトニング・ボルト」   <読書研究室>

ハワイ
 
「ライトニング・ボルト」
 
何年かおきにサーフィンブームがやって来るけれど、なんといってもあの最初のブームが一番だった。
77年の夏、僕らは、大学のサークルの先輩たちが企画した当時よくある学生ツアーで、ハワイへ行くことになった。  僕はそんなサークルには入っていなかったのに、クラスメートかその友達の誰かの仕わざか、ともかく気が付くと参加メンバーのリストには、しっかりと僕の名前が入れられていた。 まだ日本には、家族旅行で外国へ行くという習慣はなかったから、みんな初めての海外旅行だった。
うちのお袋は、付属から順調に大学に進んだ僕らをとても気に入っていたので、いくら学生の節約ツアーとはいえ、まだ1ドルが280円か290円の時代の、一ヶ月にも及ぶ滞在費を気持ちよく出してくれることになった。
 
チケットが安いからというのはもちろんだけれど、おいしい中華の機内食が食べられるというふれ込みで選んだ中華航空は、なんだかごま油のようなにおいがした。 それでもスチュアーデスから「チキン オア ビーフ?」と聞かれたり、通関用の書類を英語で書かされたり、デューティフリーショッパーズの英語のパンフレットをめくったりと、僕らは中学生の修学旅行のようにわくわくしていた。
 
ホノルル空港は、明るい木漏れ日のあいだを少し湿った空気がゆっくり流れているようだった。 税関では、胸の奥で何度も練習していた「サイトシーイング ワンマンス」が通じて、なんだか英語がしゃべれるようになった気分がしたし、手荷物検査では、何も入ってやしないのに何かが発見されて逮捕されたらどうしようかと、意味も無く心細くなっていた。
空港にいる警官は例外なく体格が良く、紺の制服は、分厚い胸やぶっとい腕にはぴちぴちで、腰には当たり前に拳銃が下がっている。 このとき僕らのいる半径5メートル以外は全部外国だと、つくづく感じていた。
トロピカル柄のアロハを着た、これまたガタイの良いロコのネーチャンがやっているレンタカーカウンターで、先輩たちは、白いリンカーンの2ドアクーペと黄色いシボレーのノバかなにかのセダンと、赤くて小さなフォードピントを借りた。 そのリンカーンのボンネットは、優に4人は乗れそうなほど馬鹿みたいに長く、それだけで僕らは憧れのアメリカ気分に舞い上がっていた。 僕らのレンタカーのダッシュボードは、強い日差しのせいなのかアメリカンなケミカルのせいなのか、ともかくひどくピカピカとてかっていた。 カーペットの隅やシートの隅には、どこかのビーチの砂が詰まっていて、南国のリゾートっぽさをかもしていたけれど、どのクルマの車内も恐ろしいほどクーラーが効いていて、僕は、アメリカのあまりの力ずくさに感心していた。
 
ワイキキビーチから山側に進んでいくとアラワイ運河までで街はおしまいで、その先にはパブリックのゴルフコースが広がっている。 団体旅行ならきっとオプショナルツアーに用意されている夜景の名所、タンタラスの丘が遠くに見えて、 運河沿いにジョギングする金髪のティーンエージャーを見下ろす、20階建ての「2211アラワイ」が僕らのコンドミニアムだ。
こじんまりと何もないロビーには、タバコの販売機がぽつんと置かれていて、見たことのないタバコばかりが並んでいた。 シルバー色のKOOLやセーラム、マルボロにメンソールがあるのも始めて知ったし、盛り上がって全部ガチャガチャと買ったのが記念すべき買い物第一号になった。
12階の部屋は、20畳ほどのリビングダイニングに2ベットルームがついていて、僕らにアメリカの豊かさを思い知らせた。 12階と14階の何部屋かに分かれて滞在するのだけれど、ここには13階という階がないってことにすぐに気がついて、当然、夜な夜なその話題で女の子たちと盛り上がることになった。
 
   ロペス
 
当時ハワイには、ジェリー・ロペスという痩せぎすでマッシュルームのような髪をしたサーファーがいて、彼が僕らの憧れだった。 ロペスは、ボードの先端に退屈そうに立ったままどこまでも波に乗っていったり、時には前後に歩いたりして見せるのだけれど、このノーズライディングという技がどんなに不可能な技かは、何十回も波に巻かれた僕らには、痛いほどわかっていた。
ロペスのボードは、ゼットの文字を長くしたような稲妻マークが書かれたライトニング・ボルトというショップのボードで、それこそが僕らがどうしても行きたいサーフショップだった。 
ワイキキからダウンタウンへ向かう途中の、メインストリートから一本はいった路地にボルトのショップはあった。 店の前には、ハワイのどのサーフショップもそうであるように、ほこりとも砂ともわからない黄土色のチリのからんだ駐車場があって、入り口を入るとドアのベルがコロンコロンと鳴った。
憧れのボルトの店は、あっけないほど小さく、Tシャツやサーフボードが事務的に並べられていて、まだあまり日本人なんかが来ることもないのか、店番のオネエちゃんは、まったく愛想がない。 どうでもない稲妻マークのTシャツが、どうでもよさそうに並べられ、稲妻マークのサーフボードは、これ売り物かと聞きたくなるくらいに無造作に立てかけられていたけれど、僕らにはどれも宝の山で、あれやこれやと、その小さなサーフショップには不似合いなほどのトラベラーズチェックに僕らはサインしていた。
近くには、ディックブリューワーやサーフラインなど、あこがれのサーフショップが集まっていて、シボレーノバの室内とトランクは、ボードやら買い物袋やらで、あっという間にいっぱいになった。
 
その翌年になると上野アメ横あたりのうるさがたのショップでは、稲妻マークのサーフものが売られるようになったし、そのまた翌年には、渋谷の西武デパートB館のスポーツ用品売り場にボルトのゴムぞうりが並ぶようになっていた。 ディックブリューワーは日本法人が出来ていたし、タウンアンドカントリーも上陸して、街中全員サーファーという、世に言うサーフィンブームがやってきた。
デパート売りのボルトには、稲妻マークのほかに、必ず丁寧にライトニング・ボルトと書かれていたので僕らは馬鹿にしていて、ハワイで買った稲妻マークだけのボルトが自慢だった。 けれど程なく、どれも同じに見られているのに気がついて、ボルトは、タンスにしまわれるようになっていった。
あのハワイ旅行に出発した時にいったい何を着て行ったのかは、もう、かいもく覚えていないけれど、羽田に帰ってきたときには、みんな、アロハをはおり、OPのコーデュロイパンツをはいて、足元のゴムぞうりには自慢げに稲妻マークが光っていたのをよく覚えている。
 
*昭和ショートstoryは、フィクションです
 荻窪生活研究所         ボルト

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釣りとグルメと冒険と人生と  開高 健      <読書研究室>

開口1 

アマゾン釣り紀行、名著「オーパ!」の中で、「永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。」と言われて、まんまとその通りになった所長。 開高健、てっきり釣り師かと思ったら、芥川賞作家で、ベトナム戦争従軍記者でした。

世界中を次から次に釣りまくったかと思えば、まったく釣れない憂鬱に垂れこめてみたり、こんなにダイナミックな写真でつづられた紀行ものは、初めてだったね。 「これが人生だ!」って本気で思ったものです。  巨匠は、「もっと広く!もっと遠く!」と南北アメリカを釣りで縦断してみたり、「オーパ!オーパ!」など、続編に続編を重ね、釣りまくり、食べまくった挙句に89年になくなります。

オーパりんごの木

一方で、ベトナム従軍記とも言える小説、「輝ける闇」をはじめとするベトナム3部作は、壮絶だ。 200名の部隊のたった17名の生き残りの一人として、目の当たりにした地獄が、珠玉の言葉を選んでつづられている。 巨匠の真骨頂は、書斎ではなく現場のルポルタージュを芯にした作品、しかも、これほど日本語を吟味する作家は、ほかにいない。

輝ける闇ベトナム

 荻窪生活研究所

  

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